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岡田健史、情熱を語る。少年時代を捧げた野球、俳優になりたいと思ったワケ

2019.06.11

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5月にハタチになったばかりの岡田健史さん。6月にはLAと日本で撮りおろしたファースト写真集の発売を控える。8歳から始めて11年間続けた野球のこと、「俳優になりたい」と思ったきっかけ。自身の中にある情熱をたっぷり語ってもらいました。

少年よ、大志を抱け ――

スタイリストが連れてきた犬の名前は“太志”。犬としては、そろそろおじいちゃんだ。太志は、この日初めて出会ったはずの健史くんによく懐き、とてもよく言うことをきいた。春の日差しは、ゆっくりと傾き、春の時間は、ゆったりと過ぎてゆく。健史くんはこの日、残された19歳の日々を悔いなく過ごすために、犬の太志と、心でいろんな話をした。おじいちゃん犬は、きっとこう言って、健史くんを励ましたに違いない。

「少年よ、大志を抱け」と――。

目の前には、青い海が広がっていた。深い深い青だった。空を見上げれば、そこにもまた果てしない青。大陸棚が広がり、対馬海流が流れている世界有数の漁場である玄界灘、その青と青の境目を、観光客を乗せた船が進んでいく。
少年はワクワクしながら、デッキから身を乗り出して、全身に海風を浴びていた。遠くに、ぼんやりと島が見えた。「お父さん! 向こうに島が見えるとよ。ねぇ、あれがアメリカ?」 周りにいた観光客が、一斉に愉快そうに笑った。少年の父は、「しっ!」と言って、慌てて少年の口を塞いだ――。

少年時代の11年間を捧げた野球

8歳から野球を始めた。以来、高校野球部を卒部するまでの11年間、頭の中は野球一色。野球のことだけを考えて生きてきた。そのせいだろうか。8歳になるまで家族でどこに遊びに行ったか、どんなところを旅行したかという記憶が、ほとんど残っていないという。

「野球をやる前は、両親はいろんな場所に、旅行に連れて行ってくれたらしいんですが、その頃の記憶がないんです。ただ、両親から聞く、自分の幼少期の話はすごく面白い(笑)。昔のアルバムを見ながら、『この時は〜』って説明してくれたりすると、この玄界灘のエピソードもそうですが、僕自身が、『あ〜、小さい頃の自分に会いたいなぁ』って感じる。『自分が好き!』というわけじゃなくて、『そんな子供がいたら面白いだろうな』って。シンプルに、そう思うんです(笑)」

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岡田健史になるまで

健史くんの歩んできた20年は、いくつもの印象的なエピソードに彩られている。そこに登場するのは、ほとんどが家族と恩師。まるで朝ドラみたいな爽やかさと健やかさで、彼は、“岡田健史になるまで”の階段を、一歩ずつ登ってきた。

野球を始める前のことだ。

地元のクラブチームに所属したくて、まだ7歳だった健史くんは、両親に、「野球をやらせてほしい」と頼んだ。「でも、両親は、『だめ』『まだ早い』って、なかなか承諾してくれませんでした。なぜかというと、それは、僕の本気を試すためだったんです。中途半端な気持ちで始めるぐらいなら、最初からやらないほうがいいと、両親は思っていたみたいです。そこから、ことあるごとに、『やりたい』『やらせて』って頼んでいたら、『本気でやるなら、いいよ』と言ってくれた。それが小2になった春のことでした。
実は、親父は前から僕に野球をやらせたい気持ちがあったようなんです。だから、僕の口から『野球をやりたい』という言葉を聞けて、本当は嬉しかったのに、その気持ちをグッとこらえて、『だめだよ』と言っていたらしい(笑)。そうやって、本気を試してくれる親の元に生まれたことは、すごく恵まれていたと思います。常に対等に、本気で僕に向き合ってくれたということですから」

とはいえ、健史くんが野球を始めてから、もう家族揃っての旅行には行けなくなってしまった。学校の授業以外の時間はすべて野球に費やされるようになったせいだ。

健史くんは、「自分には野球の才能はなかったと思う」と話す。そうして、11年間もの長い間、野球を続けてこられた理由に、指導者に恵まれたこと、好きだったから頑張れたこと、上に行きたい思いが強かったことの三つを挙げた。

「才能がない分、練習はしていました。周りの誰よりもやっていたと思います」

小学生の時は、自分が将来プロ野球選手になることを信じて疑わなかった。でも、中学2年生になると、プロの実力のすごさを思い知るようになる。

「『現実的に考えて、これだけのプロのスター軍団の中で、20歳になったお前が試合に出られると思うのか?』と自問自答したら、徐々にですが、『自分の実力では無理かもしれない』という答えに行き着くようになってしまったんです……」

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夢と現実の間にいる自分

大人になるにつれて人は、無邪気に夢を語ることができなくなっていく。夢と現実の間に自分がいて、夢までの距離がどのくらいあるのかが、わかってくる。

「それでも僕はまだ、『将来はプロ野球選手になる!』って宣言していました。その頃になると、僕みたいに堂々と言っている子は、少なくなっていたと思います」

中学のときに所属したクラブチームを卒部するタイミングで、チームの監督から、それぞれの部員に向けて選んだ文字をボールに書いて渡されるという儀式があった。

歳の健史くんに手渡されたボールにはたった一つ「泥」という文字が――。

「そこには、“人間、格好つけるようになってしまったら、面白くないぞ。つまらない人間になるな。泥水を啜ってでも生きていく覚悟を持って、格好なんかつけずに、泥臭く、無我夢中で物事に挑め”という、監督からのメッセージが込められていました。目標を持ったとき、人は、なりふり構わず突進していくことが大事だということ。そして、何を目標にして進むにせよ、技術や人間力の向上を後回しにしてはいけないよ、ということを、監督から教えてもらった気がしています」

中学を卒業すると、親元を離れ、寮生活が始まった。中学時代にすでに、「プロはもう無理かもしれない」という危機感を抱いていた健史くんは、高校でまた様々な野球の壁に直面する。

「自分はどれだけできるかを試すつもりで高校に進学したんですが、プロになるという目標に関しては、もう諦めざるを得ない状況でした。でも、頭の中には野球のことしかなかったし、野球しかできなかったので、プロ野球選手じゃなくてもいいから、将来は野球関係でご飯を食べていけたらいいなと思っていました」

岡田健史を魅了する野球

そんなにも健史くんを魅了する野球。魅力はどこにあるのだろう?

「一番面白いのは、駆け引きが多いことです。例えば、自分はキャッチャーだったので、ピッチャーにサインを送る前に、わざとブツブツ呟いたりするんですよ。『ここ、ストレート投げようかな』とか、あえてバッターに聞かせて、動揺させようとする。他にも、審判を味方につけるために、挨拶をしっかりしたり。ゴマすりというと聞こえは悪いですが、とにかく印象をよくするように振る舞います。ルールは守りますが、勝つためには、手段なんか選んでいられないんです(笑)。他にも、選手の癖や性格を分析して作戦を立てたりもしますし、実際に試合に出てみると、『こんなことしてるのか!』っていうような駆け引きがたくさんある。でもそれは、どんな職業でも同じなんじゃないかと思います。仕事は、一人でできるものではないから、目に見える部分以外の、『そういうこともあって成り立ってるんだ』というやりとりが、どこの現場でも無数にあるじゃないですか。俳優の仕事も、野球選手としてのアプローチも、『自分には何ができるか』『周りの人にどう気配りをすればいいか』という点で、ベストを尽くすことに変わりはないと僕は思っています」

だから、健史くんは、ViViの撮影の時も、「カメラマンさんが今何を求めているのか。それを察知して応えるための瞬発力を鍛える場だと思っています。カメラマンさんによって、求めるものが変わってくるので、それがすごく新鮮ですし、“駆け引き”というと誤解されるかもしれないけれど、勝ち負けとか関係なしに、一緒に仕事をするスタッフの心情を汲み取ることは、“チームあるある”だと思うので。毎回、楽しくやらせてもらっています」と漆黒の大きな瞳に、キラキラと光を宿らせながら話してくれた。

高校の野球部の監督から言われて、今も大切にしている言葉がある。“気づきの多さが勝敗を分ける”という言葉がそれだ。さっきの、健史くんが発した“駆け引き”という表現も、“気づき”という言葉に置き換えるといいような気がする。

だって、健史くん自身が、まさに“気づき”の人だからだ。見られていることに気づいて、話しかけられていることに反応して、求められていることを汲んで、今この瞬間にも、全身の細胞を総動員しながら、何かに気づいているように見える。だから彼の瞳はキラキラと輝くのだ。だから彼の肌は、透明感があるのに、弱そうじゃないのだ。心も身体も健やかだから、一緒にいて気持ちがいいのだ。

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芝居との出会い

18歳まで、健史くんの頭の中は野球一色だった。でも、お芝居に挑戦することで、健史くんは生まれて初めて“言葉にできない感情”に出会うことができた。

部活を引退して、「大学に進んで、また違うレベルのところで野球をやり直そう。そして将来は、なんでもいいから野球に携わる仕事に就こう」と、そんな風に思っていたとき、演劇部の顧問の先生に呼び出された。

「演劇部の大会に出てみらんや〜」

そのときは軽いノリで、「いいっすよ」と答えた。俳優になろうなんて、一ミリたりとも考えたことはなかった。

 1945年の8月9日、長崎に原爆が落ちる11時2分より1時間前の、ある家族の日常を描いた物語。健史くんは、主人公の女の子のいとこのところに、特攻隊に入ることを報告しにいく役だった。

「演劇に力を入れている高校だったこともあって、いざ大会に出場してみたら、地区大会、県大会とレベルが上がっていく。そんな中で、審査員や観客の方に評価していただいたこともあって、どんどん、言葉にできない感情……なんとも言えない高揚感や感動を覚えるようになったんです。お芝居ってすごいと思いました」

それからは、徐々に、「俳優になりたい」という思いが募っていった。でも、その情熱をそのまま両親にぶつけるのは気が引けた。「少し自分を客観視するための期間を持ちました。何度か、『本気なのか?』と自問自答して、『本気だ!』と確信できたタイミングで、ようやく、自分の思いを両親に打ち明けることにしたんです」

「俳優になる」と言って両親と戦った

ずっと、野球をやることを応援してくれた両親を前に、「ごめん、俺、野球やめて、俳優になる」と言った。両親は猛然と反対した。健史くんはひるまなかった。

「戦いましたね。両親と戦ったのは、そのときが初めてです。反抗期がなかったので、人生で一番刃向かった時期です。それまでは、両親に叱られたら、必ず『確かに親は正しいな、俺が悪いな』と思って素直に謝った。そうやって生きてきたのに、俳優になることだけは、譲れなかったんです。でも、両親が反対するのもわかります。だって、1年半前の時点では、『中学聖日記』に出るとか、そういう話はまだなかったし、僕自身も、俳優になるという人生を選んで、本当に大丈夫なのか。本当に、それで食べていけるのか。男として、いつか自分が養っていかなければいけない家族のために、この道を選んでいいのかという葛藤がありました。そうやって悩んだこともあったけど、今は、そのときの自分に、『大丈夫、間違ってないよ』と自信を持って言えます」

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約1時間のインタビューで、健史くんは、ずっと、“情熱”について話していた。どこか遠くにある“夢”じゃなくて、自分の中にある“情熱”について。

彼を見ていると、健やかさこそが人間が本来持つ美しさであることに気づかされる。まだほんの少年だった頃、玄界灘で幻のアメリカを見た彼は、19歳で、本物のアメリカ大陸に渡った。そこで、今しかない“生命のきらめき”を写真に収めた。「鼓動」というタイトルの写真集が、そうして生まれた。

PROFILE
岡田健史
1999年5月12日生まれ。福岡県出身。180㎝、O型。2018年10月スタートのTBS火曜ドラマ「中学聖日記」で鮮烈デビュー。7月19日放送予定のFBS福岡放送開局50周年記念スペシャルドラマ「博多弁の女の子はかわいいと思いませんか?」に主演する。タケダ「アリナミンメディカルバランス」、「イオンのほけん相談」のCMも放送中。
INFORMATION
岡田健史 1st写真集 『鼓動』 LAと日本で撮りおろしたファースト写真集『鼓動』は、5月にハタチになったばかりの岡田健史の、少年のあどけなさ、青年の清々しさ、そして大人のセクシーさをたっぷりと詰め込んだ一冊に。ぜひお見逃しなく。『鼓動』¥2000/講談社

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Photos:Masumi Ishida Hair&Make-up:Masahiro Yamauchi(letit) Styling:Taiichi Sumura
Composition:Mayuko Kobayashi Interview&Text:Yoko Kikuchi